この記事にプロモーションリンクが掲載されていますが、私の実際の体験と調査に基づき書かれています。

ハマナベKING日記

【新KING日記-096:震災の経験(11年目も迎えて)】

先週末で11年目を迎えました。
この震災で犠牲となった方々には心よりご冥福をお祈りいたします。

この時私もこの恐ろしい経験を目の当たりにした事・・・
今でも記憶に残っています。

震災当時、私は横浜に引っ越ししてきて2年位・・・
漸くここの生活にも慣れ、ランニングの友達も出来始めました。

私は戸塚にある1Kのアパートで独り暮らし、
周りはというと閑静な住宅街でした。

その当時、私は戸塚から海老名市まで通勤しており、
その震災はその海老名にある、複合機を扱う工場で勤務をしていた時に
起こったのです。

いつもの通り、お昼過ぎに昼食を食べ、休憩時間が終わると
複合機の評価テスト作業を行っていました。

14:45過ぎ 
嘗て経験した事のない横揺れが急に始まりました。地下で作業していた事もあり
物凄い横揺れに驚いたのか、私は急いで長机の下に身を寄せました。

揺れは約2分~3分 いやもっと長く揺れていた様な記憶があります。
揺れを感じている時に一瞬「このまま建物が潰れて下敷きになってしまい、
死を一瞬覚悟しました」
(丁度この数か月前にニュージーランドで大きな地震があって建物が崩れ、
下敷きになっていた人々を見ていたので)

その長い揺れでも大きな波が2回起きて、その場にいた私は生きた心地がしませんでした。
天井からは蛍光灯が落下し、目の前で大きな音と共に割れ、
更に防火設備の水が勢いよく噴出しました。

やがて揺れは収まりましたが、工場に置いてある複合機は全て製品にならない程
無残な状態で置かれていました。

気になるのは揺れの大きさ。たまたま近くにあったPCを開き、インターネットを見ると
震度5~6の情報が表示。
震源地も福島県沖でこの時点でマグニチュード8.8 震度7でした。

こうなると心配なのは家族、友人の安否。当時使っていたガラケーで
必死に電話をするが電話が繋がらない状況でした。
両親、弟は千葉に住んでいたので「まさか倒壊して・・・・」という事まで考えていました。
その後も何度も発信を試みるが繋がりませんでした。

当該、業務はこの時点で終了となり、気づいたときには工場から
海老名駅行きのバス乗り場でバスを待っていました。
その間も断続的に続く大きな揺れの余震。恐怖でした。

バスを待ち始めて15分程でしょうか・・・
突然電話が鳴り始めました!! 何と!親から着信があったのです。 
すかさず状況を聞くと両親、弟ともに無事を確認。

これで私はホッと胸をなでおろしました。 

と同じタイミングで海老名駅行きのバスに乗車。
一先ず行けるところまで行きました。

海老名駅に着くととんでもない光景を目の当たりにしました。 
いつも利用する相鉄線の改札口は物凄い人で溢れ、駅が大混乱!!

私も状況を調べたく駅員に伺うと「相鉄線は全線で運転を見合わせ。
復旧の目途はいつ立つかわからないです」という事。

うーん・・・ 
こうなると海老名駅から一先ず自宅のある戸塚へ
向かうしか方法はないのだろう・・・・

すぐに歩いて帰宅することにしました。 
道路は多くの車で大渋滞。しかもライフラインは
完全に止まっているので電気はついておらず
道は真っ暗でした。
更に余震と思われる揺れが続き、歩いている時も揺れで足元がよろめいていました。

海老名駅から歩く事2時間・・・ 
空腹たっだため、国道沿いにある吉野家で牛丼を食べました。
牛丼を食べている最中も余震で
店内のランプが揺れ、落ち着いて食べることが出来ませんでした。

それでも空腹を満たしたので、再び戸塚へ向かい歩き始めました。
吉野家から歩き始めてから更に2時間・・・漸く自宅まで到着しました。
その歩いた距離はトータルで33km!!

ランナーやっていなかったらどうなっていたんだろう???? しかも革靴で。。

そんな大変だった東日本大震災から11年!!
その日の光景は今でも脳裏に焼き付いています。
またこの様な震災がいつ来てもおかしくないと思います。

そのためにも震災に対する安全対策は常に持っておくべきだと思います。
震災が発生しても一人でも多く無事でいられるよう心からお祈りします。

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